超個人的目的

どうやら僕は黙々とこなす作業が苦手になったようだ。

昔-子供の頃、さらに言えば小中学生の頃-はそうしたことも特に苦には思ってなかった気がする。
それは特に、ゲームで遊んでいる時に毎回のように思ってしまう。
昔はゲームが大好きだった。僕の家ではゲームは一日二時間と決められていたけど、僕はその権利をしっかりと行使していた。時には、部屋の中で隠れて、勉強しているフリをしてゲームボーイで遊んでいた。
中でも特に好きだったのはRPGだ。
一生懸命にレベルを上げて装備を整えて仲間を増やして冒険するのが好きだった。
けれど、いつからだろう。恐らくは大学生になってから、ほとんどゲームが出来なくなってしまった。
段々と限りある自分の時間をゲームという非生産的行為に費やすことを恐れるようになってしまった。
だけど、誤解しないでほしいのは今でも僕はゲームが好きだし、買うことも多い。
だけど、続かないのだ。途中で飽きるわけでもない。ただ、純粋にゲームで遊ぶという行為が辛くなってくるのだ。
今、僕が遊べるゲームは雰囲気がどストライクなアドベンチャーゲーム、そしてノベルゲームくらいだ。辛うじて昔ながらの2Dアクションゲームは物によっては遊べるという程度。
かつて、大好きだったRPGなんて全く遊ぶことが出来なくなってしまった。
何故、こんなことを書いているのかというと、僕が子供の頃大好きだったゲームを最近買い直して、ついさっきまで遊んでいたからだ。
だけど、やっぱり一時間もしないうちに辛くなって、面白くなるまで我慢と思いながら五時間くらいして段々と盛り上がってきても心の中では冷めていて、とても楽しいなんて思えない。
そういう時、僕はとても悲しくなる。
こうして、大人になって大好きだったゲームを楽しめなくなった人は僕だけじゃないだろうけど、未だにゲームで遊んでいる友人は沢山いて、凄い羨ましい気持ちになる。
勿論これは「いい大人がゲームに熱中するなんて」なんて類の嫌味ではない。
友人がFPSのオンライン対戦を楽しそうにやっているのを見て自分もやりたいとわざわざ高いゲーミングPCを買って環境を整えて、いざ遊んでみても全く楽しめないのは本当に悲しくなる。
そんなふうに自分では遊べないゲームでも面白そうと思って買ってしまう僕は恐らくはアホなんだろうけど、少年時代の楽しかった思い出が頭から離れないからまた買ってしまう。
こんな風に、ゲームに限らず生産性のない何も生み出さない行為は出来なくなった。
唯一例外といえるのは友人と遊ぶ時くらいである。誰かの家に行って友人とゲームをする機会は大人になってからほとんどなくなってしまったけど、たまに一緒に飲んだり、歌ったりなんてするときだけは生産性なんて考えずに楽しんで過ごせるのは本当に良かったと思う。
だけど、困るのは一人の時間だ。大人になってから休みの日でも誰かと遊ぶ時間はそう簡単に作れなくなってしまった。これが彼女でもいれば違うんだろうけど、そんなありがたい存在は僕の傍にはいない。
じゃあ生産性の高いことをしようと思っても僕は大の勉強嫌いなのである。
生産性の無いことは嫌がるのに、怠けたがって、生産性の高い行為を嫌がる僕の脳のワガママさには呆れてしまう。
そしてその脳のワガママさに呆れているのも僕の脳である。
これではどうしようもない。
そして悪いのは僕の脳であって、僕自身ではないなんて書き方をしている所も救いようがない気がする。
まぁ、こんな僕にもまだ楽しめる趣味がいくつかあって、最も頼りにしているのは読書だ。
例によって僕の脳は生産性を求めているのでつまんない娯楽小説は拒否されるけど、大体の本は読むことができる。
それは、僕が何か書くときに、その本を下地にできるからという理由があるからだ。
それは、つまり将来的に何か小説なり、批評なり書くためという、現時点の僕にとってかなりハードな目的のための生産的行為である。
先に書いたようにノベルゲームやアドベンチャーゲームは遊べるというのは何か書くときに下地にできる可能性があるから、ただそれだけだ。
僕自身のことながら、そうした目的でも作らないと本すら読めないというのが恐ろしい。
そして、書くいう行為は常日頃から練習しておかないと難しい。
このブログはそのために書いている。
誰かのためでも、好きで書いているわけでもない、ただ本(本に限らず一部のゲームや映画)を楽しむためだけに書いている。